サンサーラ本編Ⅱ-19からの分岐パラレル
ミロ氷的展開
◆翻る、白◆
「ミロ……黄金聖闘士になった君に俺からの餞だ。特別に見せてやろう」
氷河は、少し目を細めていたずらっぽく笑い、自分のシャツの裾をめくり上げた。
北風吹きすさぶ中に、いきなりこんなところで洋服を脱ぎ捨てる気なのかとギョッとしたミロの驚きは中途半端なところで止められた氷河の手に疑問へと変わる。
白い脇腹を曝け出したところで、氷河の手は止まっていた。
よく見れば、陶磁のような白い肌に、まるでたった今何かに刺されでもしたかのような鮮紅の徴が咲いていた。
「アンタレスだ、ミロ」
「……?」
「わたしはスカーレットニードルを15発受けた」
「……!!嘘だ、ありえない!!」
即座にそう否定するミロに、氷河は楽しげに笑った。
「ありえないだろう。致命点を受けてもなおわたしはここにいる。そしてそれはミロの──ああ、君の先代の、だが……ミロの意志なんだ」
「?とどめを刺す時、手を抜いたってこと?それとも、アンタレスって実はたいしたことない……?」
不安げにミロの語尾が小さくなる。
氷河は、まさか、と強く首を振った。
「いや、アンタレスは完璧だった。あのままだったらわたしは死んでいた。だが、ミロは───わたしを助けた」
「わからない……じゃ、とどめ刺さなきゃいいのに……」
「アンタレスを撃つ瞬間まではわたしを殺すつもりだったんだ。だが、わたしには命に代えても進まなければならない理由があった。女神の命がかかっていたし、それに……」
───その先にカミュがいたから。
言葉を切って、記憶を探るような遠い目をする氷河に、ミロはどうかしたのかと不審げな瞳を向ける。
氷河はすぐに我に返って、ミロに穏やかな笑みを向けた。
「このアンタレスはわたしの負った傷の中でも一番の誇りなんだ。黄金聖闘士だったミロに青銅製闘士相手にアンタレスを撃たせたことも、その後で、翻意させたことも。矛盾しているようだが、このアンタレスこそが『ミロ』の強さの証だったとわたしは今でも思う。内乱の記録をいくら読んでも無駄だ、ミロ。あそこに書いてあるのは何の感情もない、温度の感じられないただの言葉の羅列ばかりだ」
記録からは、天蠍宮の守護をミロが全うしなかったことしか読み取れない。
対峙している青銅聖闘士が守る女性が真の女神だと気づいたから翻意した?
否、あの戦いで二人の間に流れていたものはそんな単純なものではなかった。
文字からは何も伝わらない。
あの場にいた者にしかわからない、熱と匂いと、拳を通じて交わる感情……。今でも思い出せば熱く血が滾る心地がする。対峙しながら魂の奥深くを探り合うような一瞬も気の抜けない攻防。
「ミロ、いつか君が道に迷うことがあったら、『ありえないアンタレス』を思い出すといい。きっと君の力になってくれるはずだ」
「……俺、カミュと違って難しいこと考えるの苦手だ」
「わたしだって苦手だよ、ミロ。でも、今はわからなくても、覚えておいて損はないと思う」
多分、と言いながら、氷河はめくり上げていたシャツの裾を直してミロへ向き直って、励ますようにその肩を叩いた。
正直、ミロには氷河の言っている意味はよくわからなかった。致命点を撃っておきながら助けた、とか、生き延びた者がいるならそれは致命点とは言わない、とか多くの矛盾が頭の中をぐるぐるして、だが───それよりも。
ミロの思考をそぞろにした原因はほかにあった。
氷河は、早くももう踵を返しかけている。ミロは、待って、と慌ててその手を引いた。
「えーと。見せてくれてありがとう、氷河。ちゃんと俺、覚えておくから」
「ああ」
いいこだ、と言いたげに氷河の目が細められる。
だが、ミロが「でも」と続けたのですぐにそれは怪訝な表情へと変わった。
「?どうした?」
「氷河、あのさ、あんまりそういうことしない方がいい」
「そういうこと?」
「人前で無防備に肌を晒したりとか」
「……?別に無節操に全部脱いだわけでもないだろう……何か問題でもあるのか」
「俺が、というより、氷河が困ると思うけど」
「?どういう意味だ?」
含み笑いをしながら、なかなか核心に触れようとしないミロに、氷河の声が次第に苛立ちを滲ませ始める。ミロはさらに余裕の表情で、わかんないの?と焦らしてみせる。
「氷河、恋人いたんだな。……しかも昨夜は『お愉しみ』だったとみた」
「えっ」
突然に、思いもよらぬ指摘を受けて、鼻の頭に軽く皺を寄せて瞳で問い返す氷河に、ミロはピタリと真紅の爪先を脇腹へと定めた。
まるで再びのアンタレスを撃ち込むかのように、それは洋服の上からでも正確に真紅の傷跡をなぞる。
暫し傷痕をなぞった爪先は、やがてそこから体の中心部に向かってわずかにずらされる。
「ここ」
「ここ?」
「キスマーク、ついてる。アンタレスのすぐ横に、ね」
えっと呟いて、氷河が脇腹を押さえた。が、いや、カミュにも同じ手をくらった、もう騙されるものか、と紅潮しかけた頬をきっと引き締めて、しかしチラリと視線は下にやった。
恐る恐る、今しがた下ろしたばかりの裾を捲り上げて見れば───
果たして、彼のひとの守護星の形についた傷痕に上書きするように濃い鬱血痕が残されているのだった。
くそっあのバカ!
みるみるうちに氷河の顏が真っ赤になる。
ほとんど八つ当たりの体で罵ってはみたものの、その徴をつけた主だって、まさか、氷河がこんなところで柔肌を日の光に曝しているとはとは思いもしなかっただろう。
結局のところは、己の迂闊さが招いた事態なのだった。
ああもう!
せっかく、先輩の黄金聖闘士として、「それらしく」かっこつけたものが台無しだ!
自分自身を鏡に映すことに興味がないことが災いしたわけだが、それにしても、と氷河は唸る。
「君たちは……ちょっと早熟すぎやしないか?」
心底困った、という情けない顔でシャツの裾を押さえて赤くなっている氷河に、ミロはおかしそうに笑った。
「そういう氷河はいい年して初心だな。そこが可愛いけど」
「……大人をからかうのはやめるんだ」
「『大人』らしい大人だったら、ね」
『可愛い』などと言われては、黄金聖闘士としての沽券に係わる、と、なんとかこの劣勢を覆そうと、赤くなった顔をキリリと引き締めて、コホン、と氷河は咳払いをしてみる。
「君たちはその……どこまで知ってるんだ?……ええと……意味がわかっているのかというか……」
「セックスの仕方を知ってるかってこと?」
「セッ……!?」
婉曲的に聞くべきか、それとも踏み込んで聞くのはやめるべきか悩む氷河の言葉尻を、ミロがあっさりと奪って直接的な表現に変えてしまう。
あまりにストレートな言葉に、氷河は絶句し、今度こそ本格的に真っ赤に染まってしまった。もはや「先輩の」黄金聖闘士としての威信は地に堕ちたに等しい。
これではどちらが大人かわからない。否、大人だからこそ恥ずかしい、ということもある。
氷河が赤くなるのに反比例してミロのニヤニヤ笑いは大きくなっていく。
「それはさ、知識として知ってるかってこと?それとも実践として知ってるかってこと?」
「じ……っ!?バカな!子どもがなんてことを言うんだ!」
「聞いたのは氷河だ」
「そ、そうかもしれないが、だが、君たちはまだ……」
まさか本当に『実践』の意味で知っているのか、それはミロだけか、まさかと思うがカミュまで……と、やや血の気を失った氷河を見て、ミロは盛大に笑い始めた。
「はははっ。氷河、焦っちゃって可愛いっ。ああもう、その素直な反応、たまんないなあ」
悪戯が成功した時のように笑い転げているミロに、な、なんだ冗談だったのか、だよな、と氷河はほっと息をついた。
ミロはくすくすと笑いながら、再び距離を詰め、腕を伸ばして氷河の後ろ髪を掴むように頭へ手をやった。
そのまま頭を引き寄せるようにして、耳元へ唇を寄せる。
熱い吐息が氷河の耳朶を撫でた。
「聞いてどうする気?知らないって言えば教えてくれる?『実践』で?」
低い声を直接鼓膜へ囁いた後は、ほら、こうするんでしょ?と柔らかな耳朶へ唇を押し付け、カリ、と甘噛みする。
「……ッ!?」
子どもの内緒話の延長と思い、身体を引かれるのに任せていたら、不意にありえない甘い疼きをもたらされ、氷河の身体は竦み、目はまるく見開かれた。
跳び退ってミロから離れようとすれば、ミロの腕が腰へと回されていて、強く抑え込まれていることにも混乱させられる。
「子ど……子どもが、何を……」
「子ども子どもってうるさい。試してみればいいじゃないか、子どもかどうか」
試すって。
試すって何を。
何かはわからないが、とりあえず氷河はふるふると首を振っておいた。
そして深くは突っ込まない。
「わかった!ミロ、お前はもう子どもじゃない!だから、この手を……」
氷河の腰を抱いた腕はますます強められ、蠍座の聖衣に押しつけられる身体が痛いほどだ。ようやっと自分に身長が並んだばかりのくせに、その力は強く、いくら氷河が抜け出そうとしてもきつい腕の拘束からは抜け出せない。
落ち着こうとすればするほどどんどん勝手に熱く火照っていく耳朶にミロの唇が再び触れる。
「『子どもじゃない』って認めてくれるんだな?」
ついこの間まで、黄色く甲高い声だったはずなのに───。
低く囁かれた声はどうしようもなく甘く鼓膜を震わせて、氷河は唇を噛む。何か言おうとすれば、言葉になるより先に甘い声が漏れそうだ。そもそも───耳は弱いところのひとつなのだ。
氷河は金糸を振って、やめろ、と仕草でミロの胸を押し返す。
間近でミロの蒼い瞳が、三日月のように細く眇められた。あ、俺はこのいたずらな瞳を知っている、と思った時にはもう唇を塞がれていた。
逃げ道を断つように、ミロの手が氷河の金の頭を押さえつけている。
唇が触れているだけでも氷河にとっては十分に混乱を呼んだのだが、ぬる、と温かな舌が唇の合わせ目を縫って挿し入れられるのに、氷河は恐慌状態に陥った。
───っ子どものっ……子、どもの、くせに、な、なにを……っ!
子どもじゃない、と今言ったばかりなのに、心の中で氷河は何度も子どものくせに、と喚き倒す。
そこまでだ、と押し戻す腕はミロと氷河との体の間で動きを封じられる。
氷河が本気になれば跳ね除けられないほどの体格差ではない。だが、相手は子どもだ、という意識が氷河にそうすることを躊躇わせた。
他愛無い子どもの戯れだ、本気になって騒ぐものじゃない、落ち着け、俺、と努めてクールを装う氷河だったが、氷河の抵抗が止んだことに気をよくしたのか、ミロの口づけは深まるばかり。
舌を絡められ、柔らかく吸い上げられれば、意志に反して勝手に鼻に抜ける甘い吐息が漏れ、膝が震えた。
ちゅ、という音を残してミロの唇が離れた時には、情けなくも氷河の手はミロの腕に支えを求めて縋っていた。
晴れた地中海の深みのある蒼を思わせる瞳が氷河を見返す。
「俺は『子ども』?『子どもじゃない』?」
「…………くそっ。どこで覚えたんだ、こんなこと……っ!」
ミロの問いに答えはなかったが、紅潮した頬を背けて、まだ片腕で縋っているままの氷河の態度から答えは明らかだ。
ミロは氷河の柔らかな金の髪に頭を埋めるように抱き締め直した。
「どこでどうやって覚えたか気にしてくれるんだな?」
「……っ!知るか!おい、まさかと思うが、うちのカミュに変なこと教えたりしてないだろうなっ!」
『うちのカミュ』
ミロの胸に小さな棘がちくりと刺さる。
「『変なこと』って何だ。キスのこと?それともセックス?実践してないかどうかって?」
「!!!!!!し、してるのかっ!?だ、だめだからなっ!お前はともかく、カミュは絶対にだめだっ!お前はもうカミュに近づくな!」
「………俺がよくてなんでカミュがだめなんだ。氷河が自分で教えたいから?実践で?」
ミロの頬がまるく膨らまされる。そんな仕草は子どもの頃のままなのだが。
話している内容があまりに自分の知る(知っていると思っていた)ミロやカミュの姿と乖離していて氷河はくらくらと酸欠を起こしそうだ。
「そんなわけがあるか!カミュはまだ子どもだからだ!」
「カミュは俺と同い年だけど。……そういえば、氷河の『初めて』は何歳の時に誰と」
「!俺の話はいいんだよ!と、とにかく駄目なものは駄目なんだからなっ!」
あまりの動揺に氷河の声が半分裏返っている。その上、興奮のあまりずいぶん言葉が「コドモの喧嘩」みたいになってしまっている。
可愛い。氷河。
いつも取り澄ました顏をして「わたしは」なんて言ってるけど、こっちが素の顏なんだろうなあ。
さっきの「痕」をつけた人物にはこんな顔見せてるのかな。
ミロの胸にまたひとつ小さな棘がささる。
深手を負う前に潔く撤退───それも男の美学の一つだ。と、誰かが言っていた。敵前逃亡はただの意気地なしだろ、とその時は思ったのだが、チクチク刺さる棘をかいくぐって進み続けるのは思ったよりも容易じゃない。
ミロは氷河の肩を押して離れ、片頬だけで笑ってみせた。
「あー、氷河はホントにからかいがいがあるったら」
やっぱり『からかわれ』ていたのか、と氷河は拍子抜けしたような、安堵したような複雑な表情を浮かべる。
「こんな日に大人をからかう余裕があるとは……まったく……」
深いため息とともに出た声には安堵の方が多く滲んでいた。
聖闘士として一人前にやっていける、と判断されたミロだから黄金聖衣を下賜されたわけだが、それとこれとは全然話が違う。
戦士としてはもう一人前に扱わなければならないが、誰もそんなところまで一足飛びに大人になれと言うわけではないのだ。
大人をからかうために、ちょっと背伸びをした話題を持ち出してみたい『子どもらしさ』の顕れであったのだ、とわかれば少しは焦りも消える。というか是非そうであってくれ。(できればからかいの対象は自分ではなければよいのだが、この際、本気だったと言われるよりよほどいいのでそこは目をつむる。)
氷河は二度、三度と、頭を振って、それだけ余裕があるならもう大丈夫だろう、と背中を向ける。
その背中に向かって、ミロは大声を張り上げる。
「なあ!俺のキス、うまかった?氷河!」
風になびく金糸をうっとおしそうにかき上げながら、まだ少し赤い頬をした氷河は半身だけ振り返って笑った。
「技巧が気になるようじゃ子どもだ。キスは心でするもんだ」
そう言って、氷河は片手をひらひらと振って石段を上って行った。
心なら、あったんだけど。
少なくとも俺の方は。
見送るミロの胸にはやっぱり小さな棘が刺さる。
あの、という小さな声でミロは振り返った。
そういえば、宮の入り口に侍従たちが立ったままだった。
なかなか姿を現さない宮の新しい主人に痺れを切らして出迎えに出たものの、現れたと思えば声をかけるにかけられない状況になってしまって困っていたのだろう。
気まずそうに逸らされた視線に、一部始終を見られていたのだと知れ、さすがのミロも少々にバツが悪かった。
「『就任祝い』をもらっていたんだ」
なんか文句ある?とじろりとねめつければ、侍従たちは、そうでしょうとも、と神妙な顔で頷く。それがやけに癇に障ったが───まあ、完全な八つ当たりだという自覚はあったから、もう下がってていい、と簡単な一言で退けるに止めておいた。
さっきまで小さく見えていた氷河の背はもうどこにも見えない。
完全に一人になって、ミロは、はーっと深く長い息を吐いてその場へ座り込んだ。あーもう!と不貞腐れたような気分でごろりと石畳の上に大の字になる。
ミロは自分の目の前へ手のひらを翳した。まだ小さく震えている。───氷河が気づかずにいてくれて幸い。
氷河の唇は温かくて柔らかくて、途中から夢中でわけがわからなくなった。
氷河があれほど動揺さえしていなければ、簡単にミロの緊張を見抜いたに違いないのに。
ちぇ。
キスひとつで、こんなに緊張するなんて、俺ってやっぱり子どもなんだな。
悔しい。
───仕方ないか。
好きなひととする、挨拶とは違うちゃんとしたキスなんか初めてだ。
あーあ。
俺も氷河が欲しかった、な。
カミュ。
ごめん。「好きになるのを諦める」のって難しい。
好きになってはいけないひとだと思えば思うほど、抑えきれない気持ちがどうしようもなく育つ。
───結果的にあの約束が嘘になってしまったことは、悪い、と思う。
今、お前と争うつもりはないんだ。
必死にカミュを『子ども』に留めておきたい氷河は、きっと、本心ではカミュのことを俺のことほど『子ども』だとは思っていない。
師弟という絆で結ばれているお前にはどうやったって俺は敵わない。
でも───
いつか、俺達が大人になって、あのひとと肩を並べられるほどになって。
その時になっても、俺がまだこの気持ちにけりをつけられていなかったら。
俺は、お前に真っ向勝負を挑んでもいいか。
自分の気持ちのことも、カミュのことも、氷河のこともこの先どうなるかは全くわからない。
それでも、嘘をつき続けるのは自分の性に合わないことはわかる。
カミュにも、自分の心にも嘘をついて生きていたくはなかった。
でもまだ今はその時じゃない。
ヨシッと短く息を吐いて、自分の頬をピシャリと叩いたミロは、勢いよく身体を起こす。
あのひとと肩を並べること、まずはそこからだ。
アンタレスをあのひとに刻んだ『ミロ』に俺は近づいてみせる。
ミロは力強く足を踏み出す。
この先、命尽きるまで己の守護することになる宮の中へと向かって。
風に真新しいマントの白が翻った。
(fin)