寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ:<外編>


サンサーラ本編Ⅰ-11後あたり
10000キリリクより 「他者視点で、なんだかんだでみんなに大事にされている氷河」というお題でした


◆雪解け前◆

 地中海の乾いた風が頬を撫でていく。
 くるくると舞い踊る砂埃を目を細めてやり過ごし、空へと視線をあげる。
 すっきりと気持ちよく晴れている。
 今日は暑くなりそうだ。休憩をこまめに取らないと、まだ身体ができあがる前の子どもたちはバテてしまうかもしれない。
 指導者らしくそんなことを思いながら、邪武は闘技場へと足を運んだ。


 まだ訓練開始の時間には早いせいか、訓練生の数はまばらだった。
 既に来ていた訓練生も、邪武が姿を現したことに気づかず、闘技場の端の柵に腰掛けて数人が雑談に花を咲かせている。
「……マジで!?よく見つからずに行けたな!それで、どうだった!?秘密の花園って感じ!?」
「どうだったも何も、全員仮面なんだよ!あれじゃわかんねえよ!」
「やっぱりか……訓練中も外したりはしてねえのか……」
「いっそのこと胸のデカさだけで選ぶってのはどうだ」
「……いや、俺はそこまで割り切れん。ぶっちゃけ顔は気になる」
「だよなー。つきあってみて、仮面外してもらってからごめんなさいはできないもんな」
 どうやら女聖闘士の養成場にこっそり忍んで行ったヤツがいたらしい。
 皆、年頃だ。ここの訓練生が一度は通る道だ。バカだが、可愛いもんだ。
 規則違反だが聞かなかったことにしといてやろう、と思った瞬間、「女神」という単語が耳に飛び込んできて、思わず、踵を返しかけた足を止めた。
「となると、後は女神かー……。初日に会っただけだけど、超絶美人だったな。胸デカかったし」
 なっ!?
 ふざけんな、お前ら、殺すぞ!!お嬢さんをそんな不純な目で見るんじゃねえっ!!
「女神は……いくらなんでも畏れ多すぎないか。だいたい、とてもじゃないけどつきあってもらえそうにないし」
 ったりまえだっ!!お前らバカなのもたいがいにしろ!!
「だよなー……あー……誰かいないもんかな」
 アホか、こいつらは。
 そんなエネルギーが有り余ってるなら、今日はギリギリしごきあげてやるからな、覚悟しておけ!

 若干、私情の混ざった邪武がこめかみをもんでいると、話題はまた突拍子もない方向へ逸れた。
「俺、この際、あの人でもいい。バルゴの……」
「あー……あの人、ほんっっっと可愛いよなあ」
「そうそう。色白いし、華奢だし、優しいし」
「いいよなあ。あんな恋人いたら天国だよなあ」
「ちっさいしさ、なんか護ってやりたくなる感じ?」
「そうそう。押し倒しても、あの人なら受け入れてくれそうじゃね!?」
 バカだ。こいつら本当にバカだ。
 途中からあまりのバカさ加減に、呆れるのを通り越して笑いが込み上げてきた。
 いっそ本当に瞬を押し倒してみればいい。嫌と言うほど痛い目に合って、二度と『護ってやりたい』などと言えなくなるに違いない。
「でも俺はアクエリアスの人の方がタイプかな。クールビューティー。女の代わりにするには無理があるけど、あの人なら俺は男でもお願いしたい」
「ああ!!初めて見た時びっくりしたよな!!」
「えっらい綺麗なひとだったよな」
「でも、あの人、ちょっと近寄りがたいじゃん。しゃべらないし。笑わないし。怖くないか?」
「と、思うだろ?それがさー、俺、気づいたんだ。あの人、よくカミュに世話されてる」
「?だってカミュの師だろ。世話してるのは当たり前じゃん」
「だーかーらー。逆。カミュが、あの人を、世話してるの!」
「えっ、師の強権嵩にきて弟子にあれこれ命じるようなタイプに見えないのに?」
「あー、違う違う、そういうのでもない。『先生、髪の毛はねてます。直しますからちょっと座って』『先生、今日のお昼何がいいですか?……だめです。好きだからって毎日同じものじゃ栄養が偏ります』『先生、マントが裏返しです』」
「ぶふっ……くくっ……な、何だソレ、どっちが保護者……っ」
「だろ?可愛いだろ?そんでさ、カミュにそう言われてどうするかって言ったらさ、ちょっと頬赤くして、でも大人しくされるがままになってた」
「マジか───!なんだ、そのギャップ!」
「それにさ、あのひと、この間、道に迷ってた」
「はあ!?どこで!」
「ここへ来る途中なんだ、それが!」
「ぎゃはははははは!ちょ、ちょっとそんなんアリか!」
「困った顔で『えーと……ここは今どこだ』とか呟いてた」
「す、すげー。あのひと、聖域に何年住んでんだ。十二宮内で迷う黄金聖闘士ってありなのか」
「なー!あんなに強いのに!」
 ……氷河、お前、子どもに可愛いとか言われてんぞ。
 ホント、黙って立ってりゃ、どこの王子様かっつーくらい完璧なのにな。
 まあ、お前の外見で中身も完璧だったら嫌味だけど。
「クールビューティーが実は天然、とかクルものがあるな」
「なあ?ちょっと世間ずれしてそうだし、押しに弱かったりしないかな」
「無理だろー。カミュが黙ってないぜ」
「それだよ!アイツさー独り占めずるいよな。養成場に来た時くらい、あの人に話しかけるの大目に見てくれればいいのに、『先生』『先生』って思いっきりガードしてんだもんな」
「俺なんか、話しかけた後、組手で痛い目にあったぜ。あれは絶対わざとだな」
「でも、カミュはまだガキじゃん。あのひとだって相手にするわけない。だったら、こっちにもまだ分はあったり……?」
 どこまでアホなんだ、こいつらは。
 どこをどう見て分があるとか思えるんだ、ジャガイモ程度のお前らが。

 夢見がちな思春期の坊や達の目をそろそろ醒ましてやるか、と邪武はそっとその背後に近づき、右から順にバシバシバシッと頭を叩いて回った。『女神が』の奴には少々本気で拳を入れておく。
「い、痛ぇっ誰だ……あっ、先生……!」
「そのへんにしとくか、お前ら」
「き、聞いてたなんて人が悪いです」
「あんな大声で盛り上がっといて内緒話のつもりか。そういう話をするなとは言わんが氷河はやめといてやれ。……もちろん、女神は論外だぞ」
 訓練生達は顔を見合わせた。
 女神はまあわかるが(そもそも冗談だ。本気で女神とどうこうなれるとは思ってない)、氷河の方は……『やめといてやれ』という言い方はなんかひっかかる。
『やめといてやれ』とは誰のために?
「ええと……それはカミュのためにですか?」
 互いに肘で突っつきあっていた彼らだが、疑問を抑えきれず、一人が思い切って声をあげた。
 氷河は確かにカミュの師だが、だからと言ってカミュのもの扱いするなんて……?

 邪武は彼らの顏にはりついた疑問を読んで、ああ、と苦笑して鼻の頭を掻いた。
 うーん……説明が難しいな、こりゃ。
 やめといてやれ、というのはカミュのために、ではない。
 氷河のためだ。
 瞬は心配ない。あれでなかなかしたたかだ。邪恋を告げられても、にっこり笑ってうまく切り抜けるだろう。万が一、強引な手段に持ち込もうとするアホがいたとしても、再起不能にして返すくらいのことはしそうだ。
 だが、氷河にはそれは無理だ。
 拒絶する力はあるくせに、それを使うのはうまくない。のっぴきならない状況に追い込まれるまで相手の本気度に気づかないとか、ありえそうで怖い。自分の見た目を何にもわかっていない。俺なんかで?と腹を抱えて笑って、窮地に陥ってからようやく焦るような、あまりに鈍感な友人を思い、つい、『やめといてやれ』という表現になったのだった。
 正直にそう言うと、また「そこが可愛い」ということになりかねない。天下の黄金聖闘士が子どもに可愛いと言われちゃおしまいだ。
「理由は聞かない方がお前らのためだ。氷河に手を出すと命がいくらあっても足らんぞ。聖闘士になる前に死にたくなきゃ、あいつはやめとけ」
 ってことでいいだろ。
 大筋で間違ってないはずだ。最強の黄金聖闘士が氷河の後ろで睨みをきかせてるのは確かだ。
 彼らは、やや顔を青ざめさせた。
 そうか、やっぱりクールビューティーは見た目通り中身も冷酷……?と違う方向に勘違いをしてしまったようだが……まあいいだろ。可愛い可愛いと騒がれるよりはよっぽどマシなはずだ。
「ほら、くだらんこと言ってる間にみんな来たぞ。さっさと散れ」
 邪武がひらひらと手を振って見せると、訓練生達はようやくその場を離れて、それぞれの指導者の元へと去って行く。
 ちょうど、そこへ氷河がカミュを伴ってやってきたが、皆、恐ろしいものを見るようにさっと視線をそらして俯いていて、邪武は忍び笑いを漏らした。


**

 組手をする訓練生達の間を縫って指導をしていた邪武だったが、途中で全体の俯瞰をすべく、闘技場の観客席へと上がった。
 離れて見るとまた、近くで見ているのとは違う問題点に気づく。後で指摘しようとさらさらと手元の指導票に書き込みながら、チラリと視線を上げると、氷河が円形の闘技場のちょうど反対側の観客席の椅子に腰かけているのが見えた。

 氷河はカミュの動きをじっと見ている。
 遠目に見ても、その表情が柔らかくほどけているのがはっきりとわかる。
 カミュが来るまで、氷河のあんな顔を邪武はほとんど見たことがなかった。
 口角を僅かにあげるだけ、といった、斜に構えた笑い方をするヤツなんだとばかり思っていた。
 だが、カミュが来てから、こんなに笑えるヤツだったのかと初めて知った。控えめに、だが、とても嬉しそうに、カミュの一挙手一投足をいつも見つめている。
 先ほど訓練生達が騒いでいたように、確かにそのギャップには心を動かされるが、過去を知る邪武にはその笑みにすらどこか蔭を感じて胸が苦しくなる。
 どんな思いでカミュの成長を見守っているのかと思うと、特別に氷河と親しいわけではない邪武ですら、彼の幸せを願わずにはいられない。

 視界の端で何か動いたことに気づき、邪武はさらにその視線を上げた。
 向かい側の観客席の最上段にいつの間に姿を現したのか一輝が来ている。
 あの手の動きは……くそっアイツ、煙草吸ってやがるな。闘技場では吸うなと後で言ってやらなければならない。
 一輝は座るわけではなく、壁にもたれて数段下に座っている氷河の後ろ姿を見ながら、時折、手の中の煙草を口に含んでいる。
 そんなに近くにいるなら氷河に話しかければいいのに、それをしないのが不思議で仕方がない。
 複雑な関係の奴らだ。


 少しの間、ぼうっとしていた邪武だったが、覚えのある小宇宙を感じてハッと我に返った。
「お嬢さん!……星矢!」
 邪武の背後に星矢を伴った沙織が立っていた。
 沙織はにっこりと微笑んで近づいてきた。
「これから外に出るところなのですけど……その前に、久しぶりに皆の様子を見に来たんです。こういう機会でもなければここまで下りて来られないものですから」
 聖域外に出る予定だと言う沙織の護衛なのだろう、星矢は聖衣姿だ。よっ久しぶり、と沙織の後ろで手を上げている。
 邪武は視線だけでそれに応えた後、沙織の前へ跪く。
「女神がご覧になってくださると士気があがります。まだまだ幼い者も多いですが、皆、素質がありますので、教えがいもあります」
「あなたたち指導者のおかげです。少しの間、見ていても……?」
「もちろんです」
 沙織は観客席の一つにゆっくりと腰を下ろした。
 優雅な動きに邪武は目を奪われる。年を重ねて、その美貌はますます磨きがかかり、しかし、日に日に遠い存在になっていくように感じて胸も痛い。
 星矢は沙織と同じ列に腰掛けたが、邪武はその一列下の段に腰掛けた。

 女神の存在に気づいた訓練生達がいつもよりはりきっている姿を見ながら、主に星矢と邪武で指導票をめくりながら雑談をかわす。
 カミュの指導票まで辿り着いた時、星矢が向かい側の観客席に座る氷河に視線を向けた。
「氷河、よく来てるんだな」
「ああ、引きこもってたのが嘘みたいだろ」
「だな。アイツ、ほんと任務に出る時しか自分の宮から出なかったもんな」
「そういえばさっき……」
 邪武は十二宮内で道に迷って可愛いと言われていた氷河を思い出し、こみ上げてきた笑いで言葉を切った。星矢が何だよ、変なところで切って一人で笑うなよ、と不満そうな声を出す。
「い、いや、悪い。訓練生達がさ、氷河が可愛いって騒いでたから……」
「可愛い?氷河、子どもに可愛いなんて言われてんのか」
「な、笑うだろ。正確に言えば、瞬も可愛いって言われてたんだけどさ、瞬のは外見が可愛いって言われてるのに、氷河のヤツはさ、中身が可愛いって言われてるのがおかしくてさ」
「ああ……氷河、黙って立ってりゃわかんないのにな。動くと、なんか抜けてて変なんだもんな」
「だろ。子どもにも見抜かれてんだ、アイツ。血の気の多かったお前ですらずいぶん落ち着いたし、一輝のヤツだってふらふらしなくなったし、みんなさ、オトナになって行くのに、アイツだけは昔から変わんないよな」
「だよな。見た目が変わってないってのも反則だけど、中身も全然変わらないよな、氷河」
 二人は声をあげておかしそうに笑い、星矢は、「なあ、沙織さん」と沙織の方へ首を傾けた。
 沙織は、曖昧な表情を返して黙っていたが、しばらくして、躊躇いがちに口を開いた。
「私は……笑う気にはなれません。氷河は……」
 少し哀しそうな沙織の声に二人は笑い声を引っ込め、不審な顔で沙織を見た。
 沙織は困ったように二人の顏を交互に見る。
「氷河が大人になっていないように見えるのは……きっと、14歳で心が凍ってしまっているからです」
 沙織が言わんとすることが即座にわかり、二人は静かに沙織の声に耳を傾けた。
「氷河は、多分、師の……カミュの年齢を超えて生きていることを無意識に拒絶しているのでしょう。だから、いつまでもあの頃のままで……成長期に氷河が意外に背が伸びなかったことを不思議に思いませんでしたか?人間は潜在意識下の願望で、その成長すら止めてしまうこともあるのです。……ですから、わたしは、力不足だった自分のことをとても申し訳なく思います」
「お嬢さん……」
「沙織さん……」
 そんな風に責任を感じて心を痛めていたとは。
 氷河に感じる切なさと同じ切なさを沙織に対しても感じる。
 誰の責任でもないのに。

 やがて、星矢が言った。
「沙織さんのせいじゃないぜ。あれは……誰のせいでもなかった。な、邪武」
「そうです。それに……何もなくても氷河はあんな風だったかもしれない。アイツ、小さい頃からずっとあんな感じでしたから」
「言えてる。氷河、初めて会った時からちょっと、いやだいぶ変だった」
 二人にそう言われて、沙織は少し表情を緩ませた。
「ありがとう、二人とも。それでも、わたしは氷河を見ると胸が痛みます。……もう、時効かしら。氷河には言わないでくれと言われたのですけど……十二宮を護ることになった時、氷河に頼まれたのです。外へ出る任務を俺に全部まわしてくれって。星矢、あなた達には家族がいるから、危険は俺一人が引き受けたいって。……氷河のその言葉に、わたしは哀しくて切なくて胸がとても痛くなりました」
 今でもそこが痛む、と言うように沙織は右手を胸へあてた。二人も何と答えていいかわからず、遠目に見える氷河にただ視線を向けた。
 沙織は、しかし、すぐに、ふふっとおかしそうに笑った。
「でも、そうしたら、次の日、瞬がこっそりわたしのところに来たんです。『外に出る任務があれば、なるべく氷河にまわしてやってくれませんか』って。変でしょう?氷河と同じことを言ったの。え?逆じゃなくて?氷河にだけ任務に就かせるのですか?氷河にそう言うように頼まれたのですか?って訊いたら……氷河には何も言われていない。ただ、氷河を、あの宮になるべく居させたくない。外にいたら少しでも気が紛れるに違いないからって……氷河が皆のことを思っていたように、瞬も氷河のことをちゃんと考えていたんです」
 沙織は二人に聞かせるため、というより、どこか独り言のように遠くを見ながら続けた。
「まだ続きがあるんです。瞬が帰ったら、次は紫龍が来てやっぱり同じことを言って……星矢、あなたも来ましたね」
「……そうだっけ。忘れちゃったよ、もうそんな昔のこと」
 言葉と裏腹に、まだ覚えているという証拠にそっぽを向く星矢の耳が少し赤い。
「氷河は自分は天涯孤独だから、と思っていたようだけど、少しもそんなことはなくて、みんなが次々に氷河のことを訴えに来るのがわたしは嬉しかったのです。……でも……そういえば、一人だけ、何も言いに来ませんでしたね……」
 三人は向かい側で、離れたところから氷河を見守るように立っている一輝に目をやった。
 星矢がそちらの方へ視線を向けたまま言う。
「アイツはさ……氷河嫌がってたけど問答無用でよく宝瓶宮まで通ってた。それこそ、お前の守護するのは宝瓶宮なのかよってくらいにさ」
「ええ。そのようですね。彼は、わたしに何とかさせるより、自分自身でどうにかする方を選択したのでしょう」
 そして、実際に長い長い時間をかけて、凍りついた大地を、あの炎の翼でほんの少し緩ませるのに成功したのだ。


 闘技場では、ちょうど休憩に入ったカミュが氷河の元へ歩み寄っている。氷河はそれを慈しむように笑って迎え、カミュの頭を撫でた。
 背後で見守っていた一輝は、結局一度も氷河に声をかけることなく闘技場に背を向けて去って行く。
 カミュの後ろから駆けてきたミロが氷河に勢いよく飛びつき、驚いて受け止め損ねた氷河はミロと一緒に後ろに転がった。
 カミュがミロの頭を小突き、氷河の手を取って抱き起す。
 立ち上がった氷河は、多分、二人に何か指導しているのだろう、拳を振って大きく身体を流れるように動かして見せている。
 一回り小さい二人に囲まれて、氷河は楽しそうに笑っている。
「……笑ってますね」
「ああ、笑ってる」
「とても……楽しそうです」
「楽しいんだろ、きっと」
 きっと、聖闘士を続けていなければあの笑顔はなかった。

 そう、彼もまた女神の聖闘士。
 傷ついて汚泥にまみれたままの水鳥ではなく。
 どれだけ傷ついて、凍りついた心を抱えていても、何度でも立ち上がり、僅かずつでも前へ進むことをやめていない。
 それが彼に託された命を紡ぐということだから。


 沙織はふっと息をついて笑い、立ち上がった。
「そろそろ行きましょう、星矢。邪武、ありがとう。皆を頼みます」
 邪武は小さくなっていく二人の背を見送った。

 いつの間にかこめかみに汗が滲んでいる。
 予想通り暑くなってきたようだ。
 休憩の終わった闘技場へ目をやる。
 今度は氷河も子ども達に混ざって一緒に身体を動かしているようだ。
 カミュだけではなく、近くの子どもにも時折声をかけてやっている。氷河を可愛いと言っていたあの訓練生は、顔を赤くしたり青くしたりすっかり萎縮してしまっていて、邪武は今度は声をたてて笑った。

 ここは暖かな……温かな聖域。
 シベリアでは訪れえなかったであろう雪解けもここでならきっと近い。

 凍てついた大地もその温かさの前に緩み、いつしかそこには命が芽吹くことだろう。

(fin)
(2012.4.20UP)