寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ:<外編>


サンサーラ本編直前
Ω(15話)における市の扱いがあんまりすぎて思わず書いた話


◆市サマの或る一日◆

 小鳥のさえずりが心地よく耳に届く。
 海蛇座ヒドラの市は、鼻歌を歌いながら、自慢の髪に櫛を入れた。
 鶏冠のようなこの髪型は物心ついたときから彼のトレードマークとなっている。何がきっかけでそういう髪型をするに至ったのか、自分でも覚えていないのだが、自分のお気に入りのひとつなので変える予定は今のところない。
 長髪なようでいて、長い部分は一部だけ、残りは刈り上げ、というこれは、意外と夏は涼しく冬は温かいし、何より目立つ。
 幼い頃、城戸邸に集められた約100人近い子どもの中で、全員に顔と名前が一致していた双璧と言えば市と氷河だった。氷河の外見はどう見ても日本人には見えなかったから当然として、その氷河と張るほど名をはせていた、というのは悪くない。
 そもそも、誰にでもできる髪型ではない。
 頭の形がよくないとできないから、絶壁の紫龍には無理だ。
 頭頂部をしっかり立てるのがコツだから、猫っ毛の氷河にも無理。
 童顔の瞬にも似合わないし、癖っ毛の一輝じゃ毎日の手入れを持て余す。
 星矢はほかの奴らに比べりゃマシだろうが、顔のバランスからしたらよろしくない。眉の太いヤツには似合わないのだ。

 よって、この市サマは神もとい髪に選ばれた人間。

 ビシッと鏡の中の自分を指差す。
「今日もイケてるざんす!」
 声に出して確認し、市は今日の執務へ向かうべく、鏡に背を向けた。

**

 聖域では、聖闘士は、黄金から青銅まで、地位を問わず、女神の守護のほかに、皆それぞれ役割を与えられている。
 聖域の結界の監視、雑兵達の管理、采配、若き聖闘士候補生の指導、聖域外での討伐任務、聖衣の修理、候補生の発掘……皆、腕に覚えのある猛者ばかりだ。やはり、討伐任務や警護任務はとても人気で皆やりたがる。
 しかし、逆に、人気のないのが……事務仕事である。
 いくら神のおわす聖域とて、ひとつの系統だった組織である以上、避けては通れない雑事が山のようにある。
 聖闘士の人事、福利厚生、聖闘士だって霞を食べて生きているわけではないから食事の配給だって手配が必要だ。
 聖域のお膝元の街では、求めれば、ほとんどの物資が聖域に無償で献上されるとはいえ、資金調達もしないわけにはいかない。
 まさか、女神にその雑事をさせるわけにはいかず、かといって、じゃ、事務員の募集でも、というわけにもいかなかったので……気づいたら市がそれを請け負うことになっていた。

 教皇の間の隣に設けられた、小さな執務室で、市は山のような書類に目を通す。

 えーと、今日の予定は、と。
 まず、女神は聖域外に出かけて不在、と。フー……助かるざんす。
 女神不在で『助かる』とは畏れ多いざんすが、お嬢さん、人使い荒いのよ……いくら人手不足でも無茶苦茶なんでやんす。

 後は、発注していた専門書が届いてやすね。聖域書庫用と宝瓶宮用に分けて届けること、と。

 紫龍から何か申請も出てやすね。
 なになに?先の任務で破損した聖衣の修復依頼……?しかも紫龍自ら聖衣を持ち込みたい……?
 ……紫龍には聖衣いらないでやんしょ。
 変ざんすね……黄金聖衣の破損、なんてめったにあることじゃないはずよ。
 はは~ん、あれね。
 今、ジャミールに引っ込んでる貴鬼ちゃんを訪ねるついでに五老峰へ帰ろうと言う肚ざんすね。
 弟子たちもいるというのに(いるからこそ、里帰りにも言い訳が必要でやんすか?)……却下!却下ざんす!

 ん?このメモは……?
「貴鬼からテレパシーありました。ここは寂しいからやっぱ聖域で修理作業してもいい?だそうです。by女神」
 …………だ、だから、あれほど聖域に留まれと言ったざんすよ!!
 黄金聖闘士が、何を子どもみたいなことを言ってんのよ!!(まだ子どもでやんすか?)
 沙織お嬢さんが甘やかすから……
 すぐ戻れと返事……いや……紫龍。
 今、紫龍が向かっているから、一緒に帰ってこい、と返事、と。
 紫龍には(五老峰経由で)ジャミールに聖衣持ち込んで、貴鬼と一緒に帰ってくるように、と。

 養成場からの申請はなんでしょ。
 毎日毎日山のように要求してきて、こっちは打ち出の小づちじゃないざんすよ。
『候補生が増えて来たからトイレを増設してほしい』?
 ああ……候補生……そんなに増えたざんすねえ。
 女神があっちこっちで拾ってくるもんだから……じゃ、これはあとで現場を見に行ってみましょ。

 星矢からはなんざんしょ。
『水の出が悪くて苛々する』
 仕方ないことを今更またどうして言うざんす!!
 宮が上になればなるほど、水圧の関係でそこは堪えてもらうしかないとこよ!人馬宮なんて地下水脈があるぶんだけまだマシよ!
 教皇の間や女神神殿の水の出の悪さは涙が出るざんす。
 ……ん?
 そう言えば、星矢より上の宮の氷河からはこの手の苦情が一度も出たことがないざんす。
 いくら氷の聖闘士とは言え、自由自在に水が出せるとか聞いたことないざんす。何か使い方に秘訣があるに違いないざんす。
 蔵書を届けるついでだし、ちょっと宝瓶宮まで下りるとしやしょうかねえ。

 市は全ての書類に目を通す前に(現実逃避)、傍らの段ボール箱に山と積まれていた専門書を手早く仕分けすると、宝瓶宮用、と自らが書いた段ボール箱を抱えて立ち上がった。

**

「氷河―。いるざんすー?いたら返事くらいするざんすー。よい子の基本ざんすー」
 そう声をかけるのは、いても気配すら感じさせないことの多い、この宮の住人のせいだ。
 返事がないから不在なのか、だが、メモくらいは残すか、と宮の奥へ進んで、ぼんやりと中空に視線をやっている氷河を目にしたことが何度もある。
 すぐに我に返るものの、他者の視線を意識していない状況で見せられた儚げな表情は見る者の方を息苦しくさせる。

 やっぱり、お師匠さんのことを考えてたんでやんすかねえ……。

 彼が、師と凄絶なる戦いを終えた時に、天空からひらひらと舞い降りてきた白い雪。
 あれほど哀しい白など見たことがない。
 どんな気持ちであったのだろうか。
 6年間、自分を育んでくれた人と、善悪に別れて、ではなく、立ち位置を異にして、戦うと言うのは。
 そして、今、どんな気持ちであるのだろうか。その、戦場となった地で日々過ごすと言うのは。
 市にはわからない。

 あっしも水瓶座、ではあるんでやんすけどねえ……。

 ただ同じ星座に生まれたと言うだけで代わってやれるのならば、変わってやりたい、と時折思う。
 だが、色濃く死がまとわりつく運命に、自分なら耐えられるだろうか、と怯む気持ちもゼロではない。
 黄金の聖衣を纏うことの重責も。
 力の大きさに付随して、責任も増える。
 やはり氷河は強い。
 身体的にも、精神的にも。
 いくら儚げに見えても、本当に儚くか弱い存在ではない。
 拳を合わせた自分は、それを身を持って知っている、と思う。

 だから、氷河の運命を代わってやれたら、などと思うことは傲慢な同情にすぎない。
 運命が彼を選んだのには理由がきっとあるのだ。彼なら、乗り越えるだけの力を持っている、はずだ。

 今はまだそれと必死に戦っているように見える彼に、市ができることは、だから、ただ、こうして様子を見に来ることだけ。


「どうした、市」
 宮の奥から返事がある。今日の氷河は「よい子」だったようだ。声のした方へ向かい、両手がふさがっていたため、よっと器用に足で扉を開いた。
「フー……お届け物ざんす」
「ああ……すまない、呼んでくれれば取りに行ったのに」
「わかってないでやんすねえ。青銅聖闘士が天下の黄金聖闘士様を呼びつけるわけにはいかないでやんしょ」
 長く伸びた前髪の下で、氷河の瞳が虚を突かれたように丸く見開かれたのがチラリと見える。
「……関係ないだろう、そんなこと。俺だって元は青銅だし……今だって仲間だ」
 拗ねたように唇を突き出して幼い表情を見せる氷河に市は苦笑した。
「わーってやすって。示し、ざんす、示し。色んな聖闘士が出入りする聖域でやすからね。例え仲間でもそこはきっちりしとかないと。それに下の宮にも用があるからついでざんす」
 氷河はまだ拗ねたような貌をしていたが、黙って市から段ボール箱を受け取った。
 自分の表情を隠すように長い前髪を垂らして俯いている。

 変な癖がついちまいやしたねえ……

 いつのころからだろうか。
 無造作に髪を伸ばし始めた(というより、切る手間を省いた?)頃からだろうか、氷河はこんな風に、自分の前髪によって、外界を遮断するようにうつむくことが増えた。
 元々表情は乏しい男だったが、その乏しい表情すら隠そうとしているのがバレバレである。隠さないといけない表情というのはどんな表情なのか、と考えるだに切ない。
 仲間だと思うなら、そんな風に自分達まで締め出しを食らわせることこそしなければいいのに、といくらか不満を感じる。

 市はフーと大きくため息をついた。
「髪は切らないざんす?」
「紙?……ああ、髪。別に……このままで困らない」
 困るざんす!
 そんな風に貌を隠して……お前の武器はその瞳ざんす!それじゃ、この市サマの圧勝でやんすよ!!
 最大のライバルがこのありさまじゃ、市サマ、向かうところ敵なしざんすよ!!

 市の纏った聖衣の右手の甲からカシャン、と金属質の音が響いて、鋭いかぎ爪が飛び出したかと思うと、彼はその右腕で氷河の顏を薙ぎ払うかのように右から左へと一閃させた。
 突然の出来事に、氷河は驚き、だが、やはり戦士の俊敏さでもって、それを半身だけ後ろに躱した。
 二人の間に、鋭い爪によって切断された金糸がパラパラと音を立てて落ちる。

「な、なにを!?お前の爪って毒……!?」
「ククク、もちろん、ヒドラの爪は毒の爪……」
「いや、もちろん、じゃなくて!今、俺が避けたからいいようなものの、一歩間違ってたら……」
 氷河は何度も目を瞬かせながら、床に落ちた自分の髪と、市の顏を見比べた。
 長かった前髪が、市の一閃によって、数カ所、ブツブツとみっともなく途切れているが、そのことによって彼の、晴れ渡った春の空のような優しい色合いの青い瞳がチラリとのぞいている。
 さすがの氷河も、そんなふうになった前髪を放置したりはしないだろう。短い箇所に合わせて全体を揃えるくらいはするはずだ。

 まったく、世話が焼けるざんす。
 氷河が紙一重で避けることなんかとっくに織り込み済み。
 ちょっと驚かせたのは、仲間にまで心を閉ざしてる罰ざんす。ただ見守るだけってのも、これでなかなかどうしてつらいざんすよ。


 氷河はまだブツブツと文句を言っていたが、市は用は済んだとばかりに背を向けた。
 が、すぐに思い出し、再びくるりと踵を返して氷河に問うた。
「宝瓶宮は水の出は悪くないざんす?」
「……水の出……?」
 どうにか前髪が伸びないものか、と指先で引っ張って無駄な抵抗を続けていた氷河は、また、突拍子もない方向へ転がった会話に目を白黒させた。

「水の出は……別に悪くない。凍っていないからな」

 水の出が悪くない、という言葉に、ああそう、と納得しかけ、しかし、凍っていないという言葉に市は思わず目を剥いた。
 そ、それが基準ざんすか……。

 どうりで、氷河から苦情が出たことなどないはずだ。
 シベリア暮らしの長かった氷河にとっては、水道管が凍結することなく水が使えるというだけで十分に奇跡なのだろう。
 水圧が、などと贅沢なことを考えていないから苦情もでないのだ。
 いいことを聞いた。
 この後、人馬宮に寄って、そっくりそのまま同じことを言ってやろう。
『凍っていないんだから問題ないざんす』と……。

 頭の痛い問題が一つ片付きそうで、市は満足して氷河に別れを告げた。
 一体何だったんだ、と怪訝そうな声を出した氷河の表情は、遮るものがなくなって、声同様に不思議そうに瞳を瞬かせているのがよく見えた。

**

 途中、人馬宮に寄ったものの星矢は不在(女神の護衛でやんした、そう言えば)で空振り、代わりに天秤宮では紫龍に、びっくりするくらい長い話を聞かされ(小難しく言葉を飾っていたが、結局、五老峰が気になるとかそういうことではないのだ、という言い訳だった)を聞かされ、どっと疲れを感じながら、聖闘士の養成場まで下りる。

 養成場では数十人の様々な年齢の子どもたちが、思い思いに組手をしていた。
 確かにこの人数ではトイレは一カ所では足りないだろう。増設は頭の中で『急務』の方の箱へ入れておく。
 いつの間にこれほどまでに人数が増えていたのだろうか。
 女神が聖域再建に注いだ心血の顕れのようで、幼いとも言える子ども達が汗を流す姿はどこか涙を誘う。

 よく、ここまでになりやした……。

 聖戦時、ほとんど廃墟と化した聖域の留守を預かることに、様々な想いが胸の裡を去来した。
 女神たちは今どれほどの苦境に立たされているだろうか。
 仲間たちは命を落としてはいまいか。
 微力ではあっても、自分の命も投げ出すために向かうべきではないか。いや、自分が行ったとて無駄死にになるのは目に見えている、それにセブンセンシズにすら目覚めていない自分に冥界は行きたくても行けない。
 同じ青銅聖闘士、同じ父を持ちながら、片や黄金聖闘士と肩を並べて常に最前線。
 片や常に命の危険の少ない後方支援。
 そこにあったのは、劣等感、というよりも、申し訳なさ。
 お前たちにばかり荷を背負わせて、と。
 一緒に背負ってやりたいのにその力を持たない自分に対する不甲斐なさ。
 傷ついて傷ついて傷ついていく仲間を、ただ待つことしかできないのは、同じように過酷な修行を耐え抜いた市にとって苦しい時間だった。
 市だけではない。
 皆、きっと同じ思いだったことだろう。
 だからこそ、タナトスの攻撃を、皆、進んで受けたのだ。

 女神が傷ついた星矢たちを抱えて、聖域へ帰還した時の気持ちを市は一生忘れない、と思う。
 星矢たちと共に発ったはずの黄金聖闘士は戻らず、仲間たちの傷はかつてないほど深かった。
「聖域を護りとおしてくれて、星矢の姉を護ってくれて、ありがとう。きっと護ってくれていると信じていました」と、彼女は涙を流した。
 ああ、最前線にいることだけが聖闘士の役割ではない。
 待つことしかできない苦しい後方支援であっても、女神はそれを必要としている。
 市にとっての聖戦は、聖域を護ったこと、星矢の姉を護ったこと。
 あんなに女神の聖闘士であったことを誇りに思った瞬間はない。自分達がいたから、後ろを振り返ることなく彼らは戦えた。

『地上の平和と正義のために戦う』
 誰かがやらなくてはいけない。
『後方支援』
 誰かがやらなくてはいけない。
『煩雑な事務仕事』
 誰かがやらなくてはいけない。

 やりやしょう。
 この市サマが、全力を尽くしてやってみせやしょう。



 真っ直ぐな瞳で訓練に励む子供たちを、目を細めて見つめる市に気づいたのだろう、邪武が近づいてきた。
「おい、俺が出しておいた申請の」
「わかってるのよ!開口一番トイレの話はやめるざんす!」
「違う、その申請の後にまた出した。訓練服の支給が足らない。アイツら、すぐにデカくなるし、毎日あっという間に擦り切れるんだ」
 市は唸った。
「また、でやんすか……。支給しても支給しても追いつかないざんす。いっそのこと服を着ずに訓練すればいいざんす!多方面に頭を下げまくって、金策に駆けまわってるこっちのことも少しは考えるざんすよ!!」
 血を吐くような市の叫びに、近くで聞いていた訓練生たちが吹き出した。
「市さんっていつもお金の計算してるよね」
「聖衣より算盤が似合うよね。ほんとに聖闘士なのかな」
「市さん、引退してくれたら俺らが聖闘士になれる可能性アップするんだけどな」
「引退ならそろそろするんじゃない?だって戦うとこなんて見たことないよ」
「強いのかな?」
「弱そうだよね?」
「聖戦には参加しなかったって聞いたよ?」
「なーんだ、臆病者か。言われてみればそんな感じ……」
「所詮、青銅聖闘士だもん」
「ばか!邪武先生だって青銅聖闘士じゃねえか」
「だって、邪武先生だって自分で言ってたもん。聖戦では戦ってないって」
「あー、俺、黄金聖闘士になりたい。『負け組』はやだな」
「うんうん。書類に埋もれた聖闘士にはなりたくないな」
「可哀そうな市さん……」
 小さな声で邪気なく言う子どもたちを、キッと市は睨んだ。
「そこ!聞こえてるざんすよ!んもぉートサカに来たざんす!!朝からわがまま揃いでむしゃくしゃしてたとこよ!いっちょもんでやるざんす!」
 抱えていた書類をバサッと邪武に押し付け、市はひらりと闘技場の柵を越えて子どもたちの前へ仁王立ちになった。
 邪武は笑いを堪えながら、子どもたちに、お前らが悪い、ま、がんばれよ、とおざなりな声をかけた。



「……なめてて、すみませんでした」
 子どもを相手に大人げなく、ちぎっては投げ、ちぎっては投げした市の前に、すっかり敬服してひれ伏した子どもたちの姿があった。
 市は闘技場の柵に足を組んで座り、満足気に笑みを浮かべた。
「くく、勝敗は常に顔で決まるざんす。お前らごときが向かってくるのは百年早かったざんすね。これからは市サマ、と呼ぶざんす」
「は、はいっ市サマ!!」
 ふんぞり返った市の後ろ頭を邪武が持たされていた書類でバシッと叩いた。
「アホか。それじゃ悪役だ」
「痛いざんす!せっかく集めた尊敬を………はっ!?もしや嫉妬……」
 バシッ。
 再び邪武から突っ込みが入り、ひれ伏していた子どもたちから遠慮がちにくすくすとまた笑い声が漏れた。


 市がコホン、と咳払いをして彼らを見渡した。
「黄金聖闘士になりたいでやんすか?」
 子どもたちの瞳がキラキラと輝いて、うんうん、と首を縦に振る。
「青銅聖闘士には価値がないざんす?」
 今度は彼らは、顏を見合わせて、互いを肘でつつきあった。図星ではあっても、目の前にいる青銅聖闘士二人に遠慮して正直に言えない、という顔だ。
「くぉぉぉの、おおばかもんたちがあ!!今すぐ聖域から出てってもらうざんすよ!」
 大声で一喝すると、子どもたちの背がビシッと伸びた。
 邪武までが耳を塞いで、顏を顰めている。
「いーいざんすか、ガキンチョども!耳の穴かっぽじってよーく聞くざんす!この市サマも、ここにいる邪武先生も、聖戦は女神と共に戦ったざんすよ!」
 えっ。うそ。聞いてたのと違う。邪武先生も?
 ざわざわと子どもが口ぐちに疑問を乗せる。
「聖戦の時は、この、女神不在、黄金聖闘士不在の聖域を護っていた!!ざんす!」
 それで?それで?そこにはどんな驚くべき冒険活劇が!?
 と、期待の目で見つめる子どもたちに、「以上」と告げると、皆、カックンと拍子抜けした顔を見せた。
「冥闘士たちが押し寄せてきたんですよね?」
「そーざんす」
「じゃ、市サマ、冥闘士をばったばったとなぎ倒し……?」
「それは黄金の、先代のでやすよ、お兄さんたちがやりやした」
「市サマは……?」
「今、言ったでやんす。黄金のお兄さんたちと女神が冥界に乗り込んだ後の聖域の留守を預かっていたざんす」
「それって……ただの留守番……」
「冥界に乗り込む力がなかったってことでしょう、結局……」
「一緒に戦ったって言わないソレ」
 思い思いに突っ込む子供たちを自由にさせ、しばらくしてから市は口を開いた。
「邪武先生は、男の中の男でやんすからね、自分の功績をくどくどと並べ立てることはしてないざんしょ。でも、聖戦では邪武先生は神の攻撃を身に受けたざんすよ」
 えっ。
 再び子供たちがざわめく。
 さっきから、子どもたちのなかで、評価が上がったり下がったり非常に忙しい。
「ある女性を狙って、冥界にいる神が攻撃を仕掛けてきたでやんす。残った我々が身体をはって彼女を守ったざんすよ。でも、それはただのオプションでやんす!!大事なのは、我々が聖域に居た、そのことでやんすよ」
 子どもたちがキョトン、とした顔で市を注視している。
「聖域を女神が安心して留守にできるのは、留守を預かる聖闘士がいたからでやんす。全員が最前線に行けばいいってもんじゃないでやんす。88人の聖闘士が、黄金、白銀、青銅、と分かれているには理由があるざんす。それぞれ、違った役割があるんでやんすよ。だいたい、今ここで訓練しているのは全部で何人いるかわかってるんでやんすか?皆が皆、聖闘士になれるとは限らないざんすよ。この中には雑兵になる子だっているはずざんす。黄金聖闘士以外は『負け組』でやんすか?そんなくだらないこと思うようなヤツに食わせる飯粒なんて一つもないざんすよ、ここには!勝敗は纏ってる聖衣の色で決まるんじゃないざんす!何で決まるかわかるざんすか?ハイ、そこのヒト!」
 突然に指名された子どもが吃驚して立ち上がりながら、「ハイ!顔で決まります!」と元気よく答える。
「このおおばかも────ん!!誰がそんなこと言ったでやんす!」
 え、今自分が……という抗議はもちろん黙殺された。
「勝敗は女神への忠誠心で決まるでやすよ!聖衣の色とか、聖衣の有無とかじゃないざんす!!自分で自分のことを『負け組』なんて思うような誇りのない奴は、最初から負けるに決まってるざんす。即刻立ち去って欲しいざんす。そんな奴育てるのは経費の無駄だってのよ。目標は高く持てばいいざんす。でも、青銅になろうが雑兵になろうが、自分が努力した結果に対して、誇りが持てないような生き方をするなって言いたいざんす!自分に誇りが持てないとしたら、それは努力が生ぬるいだけのことざんす!!」
 場はシーンと静まり返った。
 黙って腕を組んで聞いていた邪武が、市の肩をポンと叩いた。
 市は、ハッと我に返って声のトーンを落とした。
「……ってことを普段から指導しておくざんす、邪武先生」
「ああ、肝に銘じておこうか」
「それが申請を認める条件ざんす。未来への先行投資とはいえ、明らかな無駄金を使えるほど豊かな財政じゃないざんす」
「そうだな。多分、彼らが近い将来、聖域の礎となるはずだからな。まずはそこのところをきっちり教えておくよ」
「わかればいいざんす」
 邪武は、了解、と再び市の肩を叩き、市は、じゃあ、お前たち、手を抜くでないでやんすよ!ともう一度吠えながら闘技場を後にした。
 残っていた子ども達の間で、誰かが、小さく、すげえ……市サマ、かっけぇ、と漏らすと、それをきっかけに何かが爆発したように、次から次へと、うん、かっこいい、市サマ、俺、市サマみたいになる、という声があふれかえった。
 市の背にその声が届いているのかどうか、十二宮への石段を目指すその背中は、相変わらずのいつもの猫背で、邪武は笑った。



 ふう。つい熱くなってしまったでやんす。
 黄金聖闘士に憧れるのはいいざんすが、勝ち組とか負け組とか……さすが、現代っ子、ゆとり教育の弊害ざんすねえ……。

 彼らの言う『勝ち組』でありながら、今もなお、苦しんでいる(ように見える)氷河の宮を通ったばっかりだったせいか、つい、黙っていられなかった。
 放っておいても邪武なら、きちんと教えたに違いないのに。
 彼の女神への忠誠心ときたら……いや、彼のは忠誠心とはまた違うのかもしれないが。

 沙織お嬢さん、ざんすから。

 女神であることを知るより前に、ただの一人の女の子として知り合った自分たちは、全聖闘士の中でもやはり女神に対する想いは特別であるような気がする。
 忠誠心というより、庇護欲に近いかもしれない。実際には守られているのは、自分達の方であっても。
 だからこそ、どんな状況下であっても、星矢は彼女の盾となり、自分達も彼女を護るためなら命すら惜しくない、と思えるのだ。
 女神ではなく、生身の女の子、沙織のために。

 それが、男ってもんざんす。



 ずいぶん、時間を食ってしまったな、と、自分の執務室に戻るべく、慌てて十二宮の石段に足をかけたところで、宮のはるか下の方へ人影を発見した。

 あっちゃああ!
 あの影は女神でやんす。
 とはいえ、お嬢さんの人使いの荒さには辟易しているでやんすよ!(頼りにされている、と自分を騙さねばやってられないざんす)せっかく不在の間に色々片付けておこうと思っていたのにまだ何にも片付いてないざんす!


 よく見ると、女神と思しき人物は、自分の腰くらいの背丈の子どもを連れている。

 あ──っもう!!
 また子ども、拾ってきちゃったざんすね!?
 いくら未来への先行投資とはいえ、もう養成場はキャパオーバーざんすよ!
 この間、双子を拾ってきたばかりだというのに……!
 犬や猫の子みたいに気軽に拾ってくるのはやめて欲しいざんす。せめて受け入れ態勢を整える準備をさせてほしいざんす。
 養成場はもう無理、これ以上なら宿所の増設から始めないといけないと、今日こそ言わせてもらうざんす。
 フー……あの子はとりあえず、養成場付きじゃなくて、手が空いている黄金聖闘士か白銀聖闘士の誰かに引き取ってもらいたいところざんすね。

 市は再び下を見下ろす。
 女神の連れた子どもが不思議そうに顔を上げて、十二宮を見上げたのが、微かな顏の動きで分かる。

 遠目にもはっきりとわかる、燃えるような赤毛が風にふわりとなびいた。


(fin)
(2012.7.18UP)