師弟あれこれ(腐)

前回からの続き、ただし盛大に腐ってます。

カミュ氷ってどこで恋愛感情になったんだと思いますか?
(どこにおいてもなってねーよ!?という突っ込みは自分でしております)

師弟関係っていうのがなー、うーん、うーん。
そこに別のものが混じって欲しくないというか、師弟関係は師弟関係で完結しているから美しいのであって。
完璧な師弟関係であることにすごく萌えを感じているんですけど、こちとらかなり年季の入った腐女子なんですよ……!男2人見れば脳内でお試しセッさせてみて攻受判定してみたくなるくらいにはど腐れた自称女子なんです。不純物の混じらない師弟関係に萌えていても、それとこれとは別で二人を軽率にセッさせてみたいんです。サ、サイテー。

でもね、でもね。
思ったんですけど、セッ、別に恋愛関係でなくてもしてもよくない?(さらにサイテーな結論だしたぞこいつ)

好きです、俺もだ、みたいな、甘ーい感情を確かめ合うための愛あるセッもいいですけども、言葉以外のコミュニケーションツールの一つとしてのセッ、あってもいいかと思うのです。なんだろう、不器用な男同士、言葉ではわかりあえない感情を共有するための手段であったり、喧嘩代わりであったり。(余談ですけど殴り合う代わりに主導権を奪い合うセッとか最高じゃないですか……)男女間にあるような甘いものはなくてもいいんです。

カミュと氷河、修行時代には、気持ちは通じ合っていないと思うんですよね。
両片思いのような。いや、そもそも恋愛感情的なものすら抱いてないような。

氷河→カミュの大好きはあくまで先生として。
小犬が母犬にまとわりついているような延長で、憧れと、尊敬の入り混じった、だいすき。
一方のカミュも、氷河に関して感じる「いとおしさ」は、多分、同情的な意味合いが大きかったような気がします。一途すぎていたいけで胸が痛む、みたいな。
わたしはカミュ先生を死ぬほど好きなので、あんまそこ、幼児時代から知っているような少年に性的興奮を覚えるような先生でいてほしくないんですよね。

シベリア修行時代は、だから、ほんとうに、ただの、師弟関係だったのだろうな、と思います。

んが。

ただの師弟関係でもセッして悪いことはない……!!(えー)

お互い欲情してどうこう、とかではなくて。

アイザックのこととか、聖域のこととか、マーマのこととか、父親のこととか、将来に抱えた不安とか、過去のあれこれとか、色んな感情がもう器に収まりきらないほど溢れかえって限界値を越えて、そのどうしようもない感情の放出先としてのうっかりセッ、あると思うんです……!あくまでうっかりね、うっかり。

氷河は当然行為の意味なんかわかっちゃいない。けどもうあれこれ思い悩むのに心が疲れ切っていて、なんかわからないけどカミュが好きだし気持ちいいし、あーもう身を任せとけーみたいな。
カミュの方は困った事にやや自分のしていることを理解はしていて、そして、氷河が恋愛感情から自分に縋っているわけではなく、自分の方も氷河を恋愛対象として見ているわけでもなく、かといってただの性欲発散というわけでもなく、じゃあこれはなんだ、みたいなわけのわからなさに支配されていて。してはいけないこととは理解しているんだけど、なぜだかわからないけどそうせずにはいられない、みたいな。

アイザックを失うという極限状態を互いに乗り切るために、言葉では何も慰め合うことなんかできないけど、でも、どうにかして互いを癒さずにはいられなかった、そんな、うっかりセッ。

氷河はよく理解していないから、出すもの出してとりあえず身体はすっきりしたら、心が軽くなったような錯覚に陥ってしまって、またしたいなとか思っちゃうんだ。現実逃避ね。
でも、カミュは多分、現実に戻って後悔するんだろうな。師である自分を貫けなかったことを後悔して、だから、より一層、厳しい師であろうと自分をますます追い込みそうな気がする。

で、ですよ。

こんな二人が戦って、死に別れることになる。

カミュは、氷河が大きな壁を乗り越えたことを心から安堵して、一つの重圧から解放されたと思うんですよね。
もう師であることで自分を縛る必要はなくなった。氷河の前では常に完璧でなければいけないとしていたけど、氷河が庇護するだけの存在から、自分と対等の存在になったことで、もう、そんなふうに自分を追い詰めなくてもよくなった。
カミュがもしも恋愛感情を氷河に抱いたとしたら死の瞬間、そこだけだったかもしれないな、と。
自分を師という重圧から解放してくれた氷河に対して、本当にいとおしい存在だ、と、「弟子」への愛がほんのり甘く揺らいだかもしれない。

一方の氷河は、というと。
十二宮戦中は無我夢中でそんなこと考える余裕もなかった。
カミュがいなくなってしまってだいぶ経ってから、氷河はようやく、自分にとってカミュがどういう存在だったのか、遅れて自覚してしまうんですよね。
ポイントは星矢たちの存在なんですけど。
カミュが特別なのは言わずもがなだけど、星矢たちも氷河にとっては十分特別な存在で。
どっちがより大事とかではなくて、氷河の心の隙間を埋める部分が違っていた、と、そんな感じ。
星矢(弟)たちを守ってやらなければ、と思えるようになって初めて氷河は、生きるための力を、死んだ人間以外のものに置けるようになったんです。
星矢だったり、瞬だったり、仲間を必要とし、必要とされて、俺は生きなければ、と氷河は逞しく成長する。
死んだ人間や、導いてくれる師の存在に依存しなくても生きていけるようになった氷河は、初めて、ちゃんと氷河として完成するんです。
カミュに依存しない状態で氷河は初めて、罪の意識からの逃避ではなく、疑似家族としてではなく、カミュという人間が自分にとってはどれほどかけがえのない存在だったか、単に師であることを越えて、どれほど心の支えになっていたか、やっと気づく。

気づいても、カミュはもう永遠に戻らない、みたいな。

だから、我が脳内のカミュ氷は、死後にようやく双方向の気持ちが一致するカミュ氷です。
自分で書いてて号泣ものだけど。

この後の氷河を無性に甘やかしたくなるんですよ、だから。
軽率に総受でも許してほしい。
海界後はミロに甘やかして欲しいし、聖戦後は一輝なり、貴鬼なりに甘やかして欲しいし、死んでなかったカノンでもアイザックでも、とにかく誰か氷河を甘やかして欲しいー!
いや、氷河は誰の助けも必要としてなくて、過去の思い出を抱えてささやかな幸せを感じて生きていきそうな気もしているんですけど、わたしが甘やかしたい!!
復活設定でカミュといちゃこらさせるのが一番話が早いのはわかってるんだけど、「気持ちがすれ違ったまま死に別れた」ことが自分の中のカミュ氷の最大萌えになってしまっているので、復活設定だと、なんだか途端に萌えの方向性が迷子になるというジレンマ。難しくて自分ではなかなか書けないので、夜な夜なネットの海を徘徊しては糖分を補給する、そんな日々です。

あー、ほんとに師弟だいすき。
どうにかしてここを甘くいちゃこらさせたい。カミュ氷書きたい。でもミロ氷も書きたい。うだうだ言わずにとにかく次を書けー!今、そんな感じです。ちまちまとがんばってみます。

 

師弟あれこれ

今日は「手のひらの六花」を書き直しながら考えていたことを語りたいと思います。語る上での都合上、断定口調で語っていたりもしますけど、全て個人的解釈です。わたしがそうだと思った(腐女子的希望含む)というだけで、読む人の数だけ解釈はあると思っていますので悪しからずご了承ください。

さて、では何からいこう?
もう今更語らずともみんな同じこと考えてるよ、と言われそうですが、(そして前ブログでもさんざん語って済んでいますが)基本から。

【十二宮戦におけるカミュ】
なぜ、カミュは氷河と闘ったのか。
自分の中の正解は未だに定まりません。
氷河は、一度戦いが始まったら善悪を逡巡することなく自分の立場で戦い抜くのだと教えてくれたのですね、みたく勝手に解釈してますけど、ちょっと待って!?その解釈で合ってる!?氷河!?直前に戦ったミロは戦いの最中でばっちり逡巡してますけどもしかしてさりげなくディスってる!?
カミュ先生の宮の位置がミロより前、というか十二宮的にもっと前の方であればまだしも、十二宮の後ろも後ろ、戦局の大勢は決しつつあり、正義がどちらにあるか少しずつ明らかになり始めていて、そして、結果的にミロが正解だった以上、それでもまだ頑なに「男なら節を曲げない」ことに拘っていた、というのは黄金聖闘士として正しかったのかどうか甚だ疑問ですよね。結果的にそれで女神が護れているならともかく、逆だったわけなので……。
節を曲げないというのは、良いことであるときもあれば、悪いことでもあるときもある。手放しにリスペクトしていい性質とは言えない、と思うんです。

だから、氷河の解釈は一旦置いておいて。

カミュが何のために戦っていたのか改めて考えた時に、聖域中が女神を(つまりは正義を)巡る戦いをしている中で、カミュは一人、そういう概念とは切り離した世界にいたようにわたしには見えます。
証拠に、カミュは、星矢と瞬のことは完全にスルーで宝瓶宮を通してしまっています。
己の立場で戦い抜く=宝瓶宮の守護者であるという立場を崩さないために、氷河と戦ったというのなら、星矢とも瞬とも戦ったはずなんです。他の黄金聖闘士も、なんだかんだ青銅との一対一の勝負に応じてくれてその他は通してくれちゃったりはしてるんですけど、それでも、一応みんな、「とりあえず止めたけど逃げられちゃった、まあいいか」な体を取ってはいます。(そんなザルもいいところな十二宮システムあるかいなって話だけど、それほど青銅たちを侮っていて、自分の後ろの宮の守護者を信頼していた、ということなんでしょう)
カミュに関してだけは、星矢と瞬を足止めしようとした描写は全くない。それこそカリツォーでもなんでも、足止めに適してそうな技はいくらもあるというのに。
つまり、カミュはあそこには宝瓶宮を守護する、という目的のためにいたわけではないことになります。(自分の後のアフロディーテに絶大なる信頼を置いていただけだ、ともとれますが、十一番目の宮であることを考えたらやはりそこは「まあ後ろが片付けるだろ」くらいの気軽さではいないと思うんですよね……)
では何が目的だったか。
氷河と戦うことそのものがカミュの目的だった、というのは言い過ぎでしょうか。

ここで少し時間を遡って天秤宮事件。

実はここの時のカミュの真意も、カミュ自身の口から語られてはないですよね。
「戦いから君を外してくれたのだぞ」と言うのはミロの解釈であって、カミュがそうだと言ったわけではない。
戦いから氷河を遠ざけておきたい、という気持ちはもちろん皆無ではなかったでしょう。師とは言いながら、ほとんど育て親同然の時間を過ごしたわけなので、そういう感情がなかったとは言い切れない。
でも、本当に氷河を戦わせたくないならば、シベリアへわざわざ出向いて、「時局は切迫してきているというのに……」からの「サンクチュアリで待つ」の伝言は残さないですよね。(コマには「サンクチュアリ」としか書かれてなくて、その前後はサンクチュアリで待ってるのか、サンクチュアリには来るなだったのかわたしたちにはわからないわけですが、氷河がそう読んだ以上は、多分前後にそれらしきワードも書いてあったのでしょう。氷河の勘違いじゃなければ笑)
カミュが氷河に、聖域に来るように促したんです。あれがなければ氷河、今も呑気にマーマの墓参り続けてたはずだもの。
戦いから外しておきたいなら、あのまま放置がてっとり早い。
でも、はっきりとそうだと語られてはいませんが、カミュは、氷河が母親の元に未だに通っていることがもどかしい、聖闘士ならそうすべきではない、と考えていることは台詞の端々からとてもよく伝わってきます。
「唯一の弱点を断ち切ってやる」という台詞からもわかるように、カミュは、氷河に「聖闘士として」戦わせようとしているんです。
フリージングコフィンのときも同じです。
「聖闘士を育てる」ことに、カミュは、皆が思っている以上の使命感を持っていたんではないでしょうか。
例えば、聖戦が黄金聖闘士たちのゴール(っていうのは変かもしれませんが、聖戦で己らが命を落とすことになるのではないかというのは皆うっすら覚悟はあったはず)なのだとすれば、カミュ先生は一人「聖戦後の世界」を考えて生きていたんじゃないかなあと。
聖戦で黄金聖闘士達がみな命を落としたとしても、自分達の犠牲の上に護られた地上を、再び護っていく存在が必要だと、誰より、強く強く考えていたんではないでしょうか。
「次代を育てる」ということは、カミュにとっては黄金聖闘士として戦うことと同じくらいの比重の使命になっていたのかなと。
氷河が聖闘士としてやっていけるかどうか、氷河本人が考えている以上に、それは、カミュにとっては重圧だったんです。黄金聖闘士として存在することと、天秤にかけるくらいの、そんな重さ。
天秤宮事件は、氷河が聖闘士として正しく戦えるかどうかの最終試験。そして、氷河はカミュの課した最終試験に合格しなかった、わけです。
そりゃカミュ先生も涙を流すというもの。己の人生をかけてきた6年が結実しなかったことがわかったわけですから。
何より、テストに不合格だったということはこの先の宮のいずれかで死が待っているわけですから。どうせ死ぬなら我が手で、というのは苦しませずに死なせてやれる、師としての究極の慈悲かつ、弟子の(ひいては己の)不始末は己でつける、という、カミュの美学だったのかなと思います。

だから、カミュにとって十二宮戦とは、聖域を護るための戦いではなく、氷河指導の総括、です。

カミュだって、修業時代に教えてどうにかなるものなら、ちゃんと教えていたと思うんですよ。
でも、氷河ときたら、訓練(技術)では教えられないような、そもそもそこ!?みたいな、聖闘士の存在意義の根幹部分が仕上がってないまま聖闘士になっちゃった。
心が聖闘士として出来上がっていないくせに、力だけはある、みたいな。
なぜ修行時代に氷河を完成させきることができず、やむなく実戦の中で最後のテストをする羽目になってしまったのかは後述するとして。

で。

カミュ先生がそもそも、この戦いにおいて「聖域を護ること」は氷河を聖闘士として仕上げることの二の次でいい、と判断したのは何故か、ということなんですが。

「死すともお前は進むのだろう、友のために、女神のために、ああ、氷河よ……!」っていう台詞から、氷河が女神サイドで戦っている(=沙織が女神である)ことを知っているように見えるんですよね。
いつ知ったの、それ???どこまで知ってるの???というのが、未だに解けない最大の謎です。
氷河経由ではないことは確か。沙織が女神だと聞いたとき、氷河は驚いてますから。シベリア時代には知らなかったはず。
氷河の修行を終えた、どこかの時点で、何らかの方法で、カミュはそれを知ったはずなんです。
どこだろう。
もしも、氷河が聖闘士になるより前、例えば、城戸光政から直接聞かされたとしませんか。氷河にはカミュが敢えて隠していたパターンね。
でもそうすると、銀河戦争の時に氷河に抹殺指令を下したことがちょっと矛盾してくる。
射手座聖衣が本物であること、城戸沙織が女神であることを知っていて、沙織主催の銀河戦争に加担した青銅聖闘士たちの抹殺指令を下すとは思いにくい。
やはり勅命時点では知らなかった可能性の方が高い。
でも、戦線を離脱してシベリアへ舞い戻っていた氷河に、「この一大事にマーマに会いに行っている場合か!?サンクチュアリで待つ!」なんて尻を叩きに戻ったカミュは、聖域に向かおうとしていた沙織の動きをよくわかっている感じですよね。
サンクチュアリに来るように仕向けたカミュは、氷河に何をさせるためにそうしたんでしょうか。偽物女神が乗り込んで来ることを知って、自分とともに聖域の護りを固める手伝いをさせようとしたのでしょうか。……違いますよね、この時点で既に氷河は聖域にとっては「裏切り者」なのだから、聖域側で戦わせようとしたわけではない。
聖域側で戦わせようとしたのでなければ、必然的に、沙織サイドで戦え、と氷河に促したことになります。
沙織が偽物だと思っているのなら、氷河にそんなことをさせようとするわけがなく、つまり、カミュはあの時点で既に、沙織を女神だと認識していた、と、そう結論付けていいように思います。
お前は、聖域に来ようとしている女神を護らなければならない立場だろう、と、師として指導しに戻ってきたのです。

でも、ちょっと待って。

沙織が女神だと気づいていたら、そもそも聖域に味方したことがおかしくない?って当然と言えば当然の疑問が生じますよね。

わたしもそこずっと考えていたんだけど、沙織が女神であることを知っていたか、あるいは、薄々そうではないかと感じていたカミュですが、でも、全ての経緯を知っていたわけではない、せいではないかと思うんです。
つまり、教皇に関しては、カミュは、その正体を知らず、彼が悪であることも気づかないまま、あるいは、疑念は抱いていても確信は持たないままだったのではないか、と思うんですよね。
普通、教皇=悪だとは思いもしないでしょう。
ましてや、サガは13年間まともに聖域を運営してきたのだから。疑えって言う方が難しい。
シャカが見た教皇は善だったように、カミュも教皇を信じていた(悪だと断じるには至らなかった)のではないでしょうか。
聖域側に正義は全くないと思っていたら、いくらなんでもカミュだって十二宮戦が始まるより前に、ほかの黄金聖闘士に警鐘を鳴らすなり、したでしょうし。
それをしていない、ということは、女神が聖域にいないことを知っていても、だからと言って、聖域の全てを正義ではないと断じるまでには至っていなかった、と。
女神が聖域にいないのは何か意図あればこそで、だから、アイオリアが洗脳されても、それだけで教皇を悪だと考えるには至らなかったかもしれないし、結果的に氷河のためだけに戦ったとはいえ、一応、勅命に従う形で形の上では宝瓶宮の守護に就いていた。
ただ、宝瓶宮の先には女神がいないことを知っていたから、星矢も瞬も簡単に通しちゃったし、氷河を導くことを優先しても許される、と判断したのかもしれないな、と、思いました。

 

【カミュとマーマについて】
そして今度は、そもそも、なぜカミュは、実戦になって初めて、泥縄式に氷河の指導の総括をする羽目になったのか、ということですが。

訓練時代になぜもっとちゃんと導いてこなかったんだって話ですよね。

氷河は、マーマの船を海溝に沈められたことについて、「一体なぜ?」と全くその理由を理解していない上に、本気で憤っているわけです。
一体、カミュ先生、今までどんな指導をしてきたというのか。
6年も……6年もあって、今まで何を話し合ってきたのでしょうか。
カミュは口を酸っぱくして苦言を呈していたけど、氷河が全く人の話を聞かない子だったのか?(その可能性もちょっとあるとは思ってる笑)
いやいや、氷河の動揺の激しさから考えて、やはりこれは、二人の間で一度もマーマの件について深く話し合うことなどなかったのでは……。だから、氷河は、師の突然の手のひら返し(と感じている)に戸惑い、憤ったのでしょう。

「そんな甘い考えでは死ぬな」
は、氷河に対してカミュが言った台詞ですが、確かにその言葉どおりになってしまったわけです。ただし、死んだのは氷河ではなく、アイザック。(本当は生きていたわけですが、この時点ではとりあえず)
普通なら、その原因となった氷河の甘さを排除すべく、何らかの手段を講じていてもおかしくはない。少なくとも、アイザックを失ったことについて、そこから氷河が何を学ばなければならなかったか、本来であればきちんと説明してやったはず。なのに、十二宮戦に至るまでそれをした形跡が全くない。

何故なのか理由を読み解くヒントは二つ。
一つは、「そんなことでは死ぬな」とは言ったカミュですが、だからだめだ、とは一度も言った描写がないのですよね。
ばかりか、氷河が倒れると「母親に会いたくはないのか!」って叱咤するんです。
これでは、母の遺体を引き揚げたいから聖闘士になる、という理由を容認していたようにもとれます。そういう目的で聖闘士になるのはよいが、早死にするぞ、と、やや突き放してもいるような。
アイザックも氷河の目的を聞かされて、一度は怒りながらも、その拳を正義のために使わないことを惜しみつつ、この次にはきっと母に会える、と、やはり氷河の目的を容認しています。
二人とも、母に会いに行くな、母のために聖闘士になるな、と、氷河を否定してはいない。
氷河の目的は聖闘士としてはあり得ないものだったというのに、二人とも、なぜ氷河にそんなに寛容だったかと言えば、白鳥座の聖衣が一つだったことと無関係ではない、と思います。
カミュも、アイザックも、そして氷河も、白鳥座の聖闘士になるのはアイザックなのだと信じていたのではないでしょうか。
三者が三者とも、アイザックが聖闘士になるのだと信じていて、だから、聖闘士としての力をつけたところで氷河が聖衣を纏うことはないと無意識のうちに考えてしまっていた。
聖衣を纏うことがないなら、望みどおりに母の遺体を引き揚げたところで非難されるようなものではないのではないかと。
氷河の甘さは言わずもがなですが、カミュとアイザックもその点においては、少々、甘かったのかもしれません。
もちろん、聖闘士を養成するための修行だからアイザックにも氷河にもカミュは平等に厳しかったはずだけど、ほかに候補生がいる、というのと、氷河一人しか候補生がいない、というのとでは覚悟も重圧も何もかもが違ったはず。
カミュ先生だって人の子、つうかどっちかというと情が深い方に属するんだもの(それになんたって、カミュ先生が氷河を預かったのはまだたった14歳だったんだもの)、意図せずして、そういう人間的な甘さからくる無意識の罠にはまってしまっていた可能性は十分ありそうです。

聖闘士のための修行でありながら、聖闘士として「戦う」こと前提で氷河を鍛えてこなかったカミュは、アイザックがいれば、厳しいが、ちょっと話のわかる、情のある師として終わっていたでしょう。
悲劇なのは、誰にとっても予定外にアイザックを失うことになって、全ての歯車が狂ってしまったこと。

アイザックを失って、カミュは、氷河に対するスタンスを大きく変える必要が突然生じたんです。
こうなった以上は残された氷河を何が何でも聖闘士にするしかない。
氷河か……氷河か~~~(頭抱え)
ここで初めて、カミュは、自分の覚悟の甘さに気づくのです。
もっと早く氷河のメンタルをどうこうするために動くべきだったって。
ただ、母の遺体を引き揚げたいから聖闘士になる、という理由を、カミュは今まで、完全に否定しきらないことで消極的に容認してきたわけですよね。それも恐らくは無意識に。
暗黙の諒解というか、不文律って、目に見える形がないゆえに、完全に消し去る事ができないものですよね。存在することの証明が難しいものを撤回することは困難というか。
言葉で、態度で、死んだマーマに会いに行ってもいいよ、なんて示していれば、「わたしのあの言葉は間違っていた」と言えもするんだけど、表向きは、カミュは、「死んだ母親を思う氷河の甘さを厳しく指導し続けてきた」わけなので。
撤回し、方針転換しようにも、そうすべきものが何もないわけなんですよ。
今までと変わらず、氷河の甘さを諌めながら、ただ、今まであった、「聖闘士にはアイザックがなるのだろう」という暗黙の諒解による逃げ道だけは失われていて、同じ、甘さを叱る言葉の重みだけが変わってしまっている、という。
これは苦しい。
明確な転換を示すことなく言葉を重くしなければならなかったカミュも、突然に抱えきれない重さを背負うことになった氷河も。

誰も責められない、どうしようもない状況で、もう、カミュにできることは、氷河が、自力で未練を断ち切ることを望むことしかなかったんです。

そこで二つ目。
「聖闘士の称号を与える」ことと「キグナス聖衣を与える」ことにタイムラグがあったこと。
ここにカミュの、氷河へのスタンスが結集されていると思うのです。
聖衣を与えるのが遅れたのは、カミュの、氷河に対する、甘さ、そして師に許された優しさの全てだったのではないでしょうか。
カミュは、アイザックがいた時と同じやり方で(ただし今度は意図的に)氷河に賭けたんです。
「完全に否定しきらないことで消極的に容認」したのです。
聖闘士となれば母親の元に行く力は得られるわけですが、せっかくついた力を正義のためではなく、死んだ母親のために使うことはしてはならない。ただし、聖闘士になって、初めての実戦に出るまでの空白の時間、その僅かな時間だけならば……見ないふりはできる、かもしれない。

一度聖衣を纏ってしまえば、戦士としてもう後戻りはきかない。
だけど、聖衣を纏いさえしなければ。

元はと言えば、最初に断ち切らせなかったカミュのせいでもあるんだもの。今さら断ち切れと突きつけるのは氷河には酷すぎる。でも、断ち切らなければならない。だから、カミュができるギリギリの譲歩が、空白の時間を氷河に与えること。
きっと、カミュは葛藤の末に、そうしたと思うんです。

マーマの乗った船を引き揚げたいって氷河は言ってたんだもの。引き揚げて、墓標でもつくれば気持ちが落ち着くだろうと普通は思うじゃない。まさか足しげく通うようになるだなんて、思ってもみなかったに違いないよ……。

自分の慈悲が、想定外な方向に転がってしまったことを知って、それで、ようやくカミュ先生も見切りをつけての海溝落とし。氷河にとっては、なぜ突然に先生はそんなことを、と全く理解できないことだったかもしれませんが、カミュにはカミュなりに理由があり、そして全然突然ではなく、氷河は自分で立ち直るための猶予を十分に与えられていたんです。

あるいは。
こうとも考えられる。

「完全に否定しきらないことで消極的に容認」ではなく、もっとはっきり氷河自身の意志を尊重していたのかもしれない。
車田界の男って、どんなときも相手の自己決定権を尊重してくれますよね。ミロだって降伏か死か(一応)選ばせてくれるし。
正義を選ぶも悪を選ぶも己の心次第。
母への未練を断ち切れず早逝するならそれも氷河が選んだ道。
氷河に駄目だ、と言うのは簡単だけど、それで諦めさせたのでは根本的解決にはならない。
氷河が、(よく飽きないなとヤコフが呆れるほどに)海の底に通い続けても、カミュはただ、氷河の意志を尊重し続けていたのかもしれない。

となると。
6年間も氷河の意志を尊重し続けておきながら、十二宮戦直前に突然の手のひら返ししたことになるわけですが。
わたしは、カミュが師として立場から逸脱したのは、「氷河に母への思慕を断ち切らせることができなかった6年間」の方だと思っていたんですよね。氷河を不憫と思うあまりに師としては失格だけど甘やかしちゃった、のかなって。
でも、車田カミュはそうじゃなかったのかもしれない。
「そんなことでは死ぬぞ」と言いながら、母に会いに行きたいという気持ちに歯止めをかけさせなかったカミュは、むしろ、冷淡なほど氷河を突き放してもいたともとれて。
淡白すぎるほど淡白な師弟関係を保って、氷河の生死を氷河自身に選ばせてきた先生が、十二宮戦、初めて、氷河の生死に深く介入した。
甘さを捨てきれない氷河に、死を強く予感して、今まで感情を抑えて氷河を突き放し続けてきた先生が、己の感情を抑えきれずに行動してしまったのが天秤宮事件だとも言える。

どちらの解釈でも、カミュは、氷河に強く生き続けて欲しかったのだということは間違いない、と思うのです。

 

【氷河にとってのマーマについて】
これまでカミュサイドから語ってきましたけど、そうすると氷河がマザコンすぎるのがいけなかった、みたいな結論になりそうなんですが、いやいや、ちょっと待って。
わたしが氷河を好きだということを差し引いても、やはりここは擁護しておきたい。

聖闘士の中で、氷河は特異なメンタルを持っていると思うのです。
いや、違うな、特異なメンタルを持っている聖闘士の中において氷河はむしろ普通だと言うべきか。
7歳やそこらで黄金聖闘士だったカミュたちが、そのへんの7歳と同じメンタルだったはずがない。
誰も彼も両親の記憶がない、孤児院育ちの青銅たちも、子どもらしい子どもだったかと言えば、やはり年齢以上に大人であることを強いられた幼少期を過ごしたのではないでしょうか。
でも氷河は違う。
愛情深くマーマが育て、あなたのお父様は立派な人なのですって聞かされて、多分、普通に幸せな幼年時代だったはず。
それがある日突然失われる。
今感じているのが絶望だとも認識することができないほどの喪失感しかなく、心に大きな空洞ができて途方にくれているところに、近くにいた大人が慰めに言った言葉がするりと入り込んでしまう。
「聖闘士にでもならない限りあの船は引き揚げられない」
こんな風に言われたら、普通の子どもは、諦めちゃいますよね。それを見越して、「残念だけどもう決して手の届かないところに行ってしまったんだよ」という趣旨のことをあの大人たちも言いたかったんでしょう。
でも、氷河は普通の子どもだけど、普通の子どもにしては強い子だった。
よーし、だったら聖闘士になってあの船を引き揚げるんだって、決意してしまった。
それでも、ここまではまだ、健全すぎるほど健全な思考です。世界のために聖闘士になる、なんて崇高なことを考えてしまう7歳よりよほど普通な子どもだとも言える。
これで氷河が、有言実行、聖闘士になってマーマの乗った船を引き揚げ、墓標でもたてて弔っていたなら、その後の展開は違っていたはずなんですが、どこでどう変わってしまったのか、氷河と来たら引き揚げるどころか、お花を持って通うようになってしまった。

どこで変化したのか。
なぜ変化したのか。
その原因の1つは、哀しいことに、多分、カミュです。
前述したとおり、氷河を鼓舞するために「母に会いたくはないのか!」ってカミュは言ってしまってるんですよね。
死者をあたかも生きた人間のように扱って、心を慰める手法は、とても優しく穏やかな悼みの手法です。
墓前に手を合わせながら「会いにきたよ」と表現してしまう、あれです。陰膳に供えたお水が減っていたら「飲んでくれたんやね」って言ってしまう、あれです。
本質的に情が深く、心優しいカミュは、氷河を鼓舞するためとはいえ(というか、だからこそ)、「引き揚げたくはないのか」などと、氷河の母をモノ扱いしてしまうことができなかったんです。実際には既にただの物体と成り果てていることをよく知っているにも関わらず、氷河にとっては何より大切なものだと知っているから、まるで生きている人間のことを語るかのように「会いたくはないのか」と表現してしまった。
それは単なるレトリックだと、幼いながらに氷河は頭では理解していたでしょう。
でも、心は。
困ったことに、氷河、多分、暗示にかかりやすいんです。
根拠はあれです。ミッドガルド。
(原作ベースで語っているのにいきなり映画エピソード混ぜるなって話ですが)
洗脳も、されやすい人、そうでない人いますよね。氷河は多分、暗示にかかりやすい精神構造もっていたんではないでしょうか。思考も行動も何の捻りもなく素直ですもんね。
会いたくはないのかって、敬愛する師に言われているうちに、なんかだんだん、聖闘士になりさえすれば母に会えるような気になってしまっていても不思議はない。もちろんすぐに我に返って、まあ、マーマはもう死んでるんだけどな、と、何度も確認はしたでしょうけども。

そして、原因はもう1つ。こっちも意図せず氷河を暗示にかけてしまった失言があります。
「引き揚げないでいておやり」「シベリアの海の底にいる限りマーマの美しさは永遠に変わらないのだよ」
言った人たちに罪はない。
あの人たちは、氷河が将来本当に船を引き揚げられるだなんて思ってなかったんですよね。
だから、ちっちゃな子どもの心のせめて慰めになれば、と思って、「お母さんはずっときれいなままでいられるんだよ」って言っただけで。冷たいシベリアの海で遺体がどう変化するかなんて、そうそう何度も先例があるわけじゃない。引き揚げられないほどの水深に沈んだのなら、そもそも、誰もどうなったか見たりはできないでしょう。だから、彼らは、はっきりした根拠なんて持たずにそう言ってるんです。もしかしたら、事実ではないと知っていて、氷河を慰めようと敢えて嘘をついたのかもしれない。普通なら聖闘士になどならず、一生目にしないはずのものだから。
母が無惨な水死体になったと思わせておくより、母は生前と少しも変わらぬ姿で海の底にいるのだ、と思わせておく方がまだ、ほんの、ほんの少しだけ救われるような気がするでしょう。
でも、その、「引き揚げさえしなければ、マーマの美しさは永遠に変わらない」という一言が氷河に刻んだものは大きかった。

それで、です。

こんなふうに、既に、幾重にも暗示にかかっていた氷河がマーマに会いに行ったらどうなるか。

結局、マーマは自然界の法則を超越して美しいままだったわけですが……わたしはね、あれ、氷河一人が見た幻だった、と思うのです。

氷点下といえど、海水に長く置かれていた遺体が、全く損傷を受けないことはありえるのでしょうか。
百歩譲って奇跡が起きていたとして。
だったら、あのドレスは誰が着せた?着ていたはずのコートはどこにいった?浮力は働いていないの?水中でベッドに寝ていられるものなの?そもそも沈没船にしては窓もドアも腐食がなさすぎない?
そこは車田漫画だから、の超理論で長年捻じ伏せてきたけれども、でも、あれは全て幻だったとしても、なんら矛盾はしないなあと思ったのです。

マーマに会いたい(既に目的は「会いたい」にすり替わり済)一心から氷河はアイザックを失ってしまったわけでしょう。
それで、いざ、力を得てマーマに会いに行った時に、そこに、想像していたような「美しいまま」のマーマがいなかったら。

14歳氷河の精神、持つと思います?

マーマは美しいまま、そこに居なければいけなかったんです。氷河が求めていたマーマがそこにいないなら、アイザックはあまりにも無駄死にすぎるから。
そんなふうに、「罪悪感のあまりに現実を受け入れられなくて幻を見ていた」方が、「生きているみたいに美しくドレスアップしていて水中でもきちんとベッドに眠っているマーマ」よりは現実味があるような気がします。

マーマが幻だと考えた根拠はほかにもあって。

それが鳳凰幻魔拳です。
恐怖を増大して幻や悪夢を見せるという。
ただ、自白剤代わりに過去の回想シーンに便利に使われる場面もあり。
一輝自身、氷河が跳ねかえした鳳凰幻魔拳は「自分の過去を回想する」ものでした。
そうなると、その直前の氷河が受けた鳳凰幻魔拳も「自分の過去を回想する」ものではなかったとどうして言えましょう。

6年たっていますから。
腐乱死体なマーマではなく、せいぜいお骨、もしかしたらそれすらも海流に失われてしまっていて何も見つけられなかった可能性はありますが、でも、あんなふうに無惨に崩れ落ちていくマーマを鮮烈にイメージしてしまうような何かを氷河は見ていたんではないかと思うのです。
現実に耐えかねた心は無意識に逃げ道を探して、そして、「引き揚げなければ永遠に美しいまま」に戻る……。

それにね。幻魔拳とは何か考えていたんですけども。
あれ、なんだか軒並み、「自分自身が無残に死ぬ」幻を見るようになっていますよね。なのに、氷河と一輝だけ見た幻が違う。
考えたんですけど、幻魔拳って「生きたいという人間の本能を打ち砕く魔拳」なのかなあと。
一輝の場合、過去を回想しただけになっていますが、一輝は既に、この時点では生きていたいなどと思っていないんですよね。エスメラルダを失って、父への憎しみに、己自身すら滅ぼさんとして戻ってきているから。生きたいという本能を既に失っていたから過去の回想だけだった。
氷河の場合も同じ。生きたいという本能はこの時の氷河にはなく、「マーマが美しいまま存在していなければ生きていられないほどの罪悪感と喪失感」を抱えていたわけで。
氷河は、なんだかんだ幻魔拳を跳ね返していますよね。氷河のマーマへの思いが強かったからだとかなんとか言ってますが、あれ、本当は、辛い現実からの逃げ方を経験上知っていたせいかなあと思って。
逃げるっていう言い方は氷河を貶めることになるかな。
悪いことではなくて、誰にも起こり得る防衛本能です。マーマがすっかり死者の様相を呈していることから心を背けた経験があった氷河だから、幻魔拳からの脱し方を本能的に知っていた、と読むこともできます。聖闘士に同じ技は二度通用しないのだ。

 

こんなふうに、いろんな要因が幾重にも重なった結果、氷河は拗らせに拗らせてしまい、カミュの思いは裏目に出たのかな、と。
一度目に手のひらの六花を書いた時にはあんまりそこまで考えずに書いていたんですけど、書いた後でいただいた感想を読ませていただいたり、もう一度原作を読み返したりしているうちに、少しずつ、解釈が変わってきたのでいつか語りたい、語りたいと考えていたのでした。ようやくはき出せてとても満足です。また新しい解釈が降りてきたらまた書きます。何度でもループしたい。ああ……師弟尊い……すき。

そんなわけで。
予告通りに長くなったんだけど、思いつく端から思いつくままに語って全然整理できていない文章でごめんなさい。読みにくいと思うけど誰か最後までおつきあいしてくれた方いらっしゃるだろうか。
しかし、実はまだまだ語り足りなくて(笑)
恐ろしいことにこの雑記、続きます。つぎは腐目線で師弟の恋愛感情などなど語ります。
こういうの、オフ会とかでお酒飲みながら語れば最高なんでしょうけど、深夜限定の孤独な腐女子なので、せめてここで語らせてください~!